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まなぶ

フレデリック・リンガー


▲フレデリック・リンガー=県立長崎図書館蔵=
現在の旧リンガー邸

広範な事業で長崎の経済に貢献

 フレデリック・リンガーは、イギリス・ノーフォークの出身で、若くして中国に渡った。元治元年(1864)トーマス・グラバーの招請により来崎し、グラバー商会の製茶及び輸出の監督として入社した。そして、4年後の明治元年には、グラバー商会ののれん分けという形で同僚のE・Z・ホームと共に「ホーム・リンガー商会」を開設した。
 開設間もなくホームは英国へ帰り、グラバー商会も倒産したので、リンガーは、グラバーに代わって長崎での外国貿易の第一人者となった。その事業は実に広範にわたり製茶業、捕鯨を含めた漁業、世界中の数十社に及ぶ保険及び海運会社の代理業を手がけていた。なお、対外貿易としては、欧米から機械、造船材料、鉄板その他板ガラス、オレゴン松材、毛織物、洋酒などを輸入していた。また夏季には、函館より天然氷を取り寄せて、まだ製氷会社が設立されていない長崎では好評を博した。また、蒸気洗濯所、製革工場、新聞、ガス会社、麦粉工場、ホテル業など、長崎の経済に貢献して地元の商社近代化にも大きな影響を与えたと言える。
 リンガーは明治40年(1907)ノーフォークへの帰郷中、不帰の人となったが、長崎で生まれた子供や孫たちがホーム・リンガー商会を引き継ぎ、リンガー家はこの港町に定住した。しかし長崎の街が戦争色に染まる昭和15年、長男F・E・E・リンガーが南山手の自宅で病没、同年10月に70年以上も営業を続けていた商会は閉鎖を余儀なくされた。
 戦後、フレデリック・リンガーの次男シドニーは長崎へ戻り、生家である南山手二番地に一時的に滞在した。今、長崎にはその子孫は住んでいないが、国指定重要文化財「旧リンガー邸」は一族が長崎で果たした重要な役割を物語っている。



海外交流メモ ●リンガーのホテル
  日清戦争と日露戦争をはさんだ10年間に、長崎は繁栄の黄金時代を経験した。フレデリック・リンガーは、需要の高まりを見越して、「東洋一壮大なホテル」の建設を計画した。明治31年9月1日、大浦海岸通り(香港上海銀行長崎支店の隣)にオープンした「ナガサキ・ホテル」は、その当時、まさにアジアの一流ホテルであった。華やかな3階建ての煉瓦造りに客室50室、広いベランダから港を見下ろす最高級の部屋をはじめ、125名を収容できるダイニングルーム、日本初の全室電話完備、自家発電、冷蔵設備を備えていた。しかし、日露戦争後、観光客も貿易額も急下降を辿り、ナガサキ・ホテルはリンガーが英国で死去した翌年の明治41年に閉店を余儀なくされた。

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