各市町の被害状況

このページを印刷する

長崎市佐世保市島原市諫早市大村市対馬市長与町川棚町雲仙市(旧吾妻町)雲仙市(旧愛野町)
雲仙市(旧南串山町)南島原市(旧口之津町)南島原市(旧有家町)平戸市(旧生月町)佐世保市(旧宇久町)新上五島町

 

長 崎 市

昭和19(1944)年8月11日

中国基地の米軍B29爆撃機、初めて長崎を空襲

※ B29は6.16、7.7の2回、北九州工業地を爆撃し、8.11、第3次空襲で長崎を襲った。いずれも夜間空襲である。「29機のB29は、各機3トンの焼夷弾や爆弾を積んで、長崎の工場地帯を攻撃、うち24機は目標上空に到達した。この爆撃もまた成果は不満足なものであった」(「B29」カール・バーガー)事実、長崎空襲は目標を外れて、三菱の工場地帯にはほとんど被害はなかった。ただ、隣接の平戸小屋町・稲佐町と古河町の一部を焼いた。全半焼9戸・全壊1戸、死者13人・重傷26人(原爆戦災誌)

昭和20(1945)年4月26日

第2次空襲 午前11時、1機のB29が無警報下の長崎市内に4トンの爆弾と7発の時限爆弾を投下

※ 時限爆弾は出島岸壁、桟橋の交通船、長崎駅構内などで爆発。第2次空襲の被害は死者129人、重軽傷者278人、家屋の全壊1戸、半壊3戸(原爆戦災誌)

昭和20(1945)年7月29日

第3次空襲 午前10時ごろ、沖縄基地のA26が32機、長崎を空襲、爆弾51トンと破片爆弾6トンを投下

※ 敵機の編隊は、三菱造船所を中心に、数波に分かれて波状攻撃を行い、また市の北部と南部地区にも爆撃を加えた。第3次空襲被害は死者22人、重軽傷者41人、行方不明3人、家屋の全壊43戸、半壊113戸、校舎1棟半壊(原爆戦災誌)

昭和20(1945)年7月31日

第4次空襲 沖縄基地のB24が29機、伊王島沖で数波に分かれ、空襲警報下の港外及び長崎市内に来襲

※ 港外では、一波が香焼島の川南造船所を低空爆撃。一方、市内に侵入した敵機は木鉢町、平戸小屋町、稲佐町、竹ノ久保町、岩川町、愛宕町、土井首町、田手原方面に投弾して退去、第4次空襲被害は死者11人、重軽傷者35人、家屋の全壊72戸、半壊76戸(原爆戦災誌)

昭和20(1945)年8月1日

第5次空襲 B24が24機、B25が26機、空襲警報下の長崎を空襲、軍需工場を中心に爆弾112トンを投下。第1目標となった三菱造船所を始め、三菱製鋼所・長崎医大などの重要施設に大きな被害を出す

※ 死者169人、重軽傷者215人、行方不明40人、家屋全壊107戸、同半壊134戸)

top へ 

佐世保市

1.空襲の概要(昭和20年6月28日から29日分)        

空襲を受けた地域 佐世保市街地
 空襲を受けた時期 昭和20年6月28日 午後11時50分頃から約2時間に及ぶ
来襲した爆撃機数  B29爆撃機 141機(米軍資料)
 投下爆弾トン数

 焼夷弾 1,000トン余

 ○占領軍が写した終戦直後の佐世保

終戦直後、占領軍が佐世保に進駐したこ
ろのもので、昭和20年(1945年)9月ご
ろの撮影であると記録されています。

「写真提供 芸文堂「占領軍が写した終戦直後の佐世保」から」 

2.空襲による被害(昭和20年6月28から29日分)

焼失面積 1,782,000平方メートル
焼失家屋 全焼 12,037戸 (全戸数の35%)
半焼 69戸  
被災者 総数 60,734人 (全人口の27%)
死亡者 ※1,229人  
負傷者 336人  
罹災した主要建物

市役所・公会堂・玉屋デパート・佐世保警察署・佐世保郵便局・税務署・区裁判所・相互病院

八幡神社・佐世保会館・電気工事局・劇場映画館5・寺院3

国民学校9(八幡・戸尾・潮見・光園・山手・保立・福石・木風・小佐世保)

青年学校2(八幡・戸尾)

中学校7 (市立工業・成徳高女・市立第二高女・県立高女・県立工業・済美高女・女子商業)

 ※佐世保空襲犠牲者遺族会の調べによる

3.佐世保市統計

 

昭和10年

(開戦時)

昭和19年

(戦時中)

昭和20年

(終戦時)

平成17年

(現在)

市の面積 52.03平方キロメートル 137.29平方キロメートル 137.29平方キロメートル 307.54平方キロメートル
世帯数 30,457世帯 54,253世帯 31,702世帯 97,220世帯
人口 合計 161,593人 287,541人 147,617人 247,282人
男性 82,413人 149,522人 72,356人 116,098人
女性 79,180人 138,019人 75,261人 131,184人

※ 平成17年は4月1日現在の数値、それ以外の年は各年12月末現在の数値を記載

top へ

島 原 市

○空襲等の状況

 昭和16(1941)年に始まった太平洋戦争は、次第に激しさを増し、昭和19(1944)年頃から島原半島地域の小都市にも攻撃がなされるようになった。

 当時島原では、現島原農業高校付近に特設飛行場が作られ、秘密の特攻訓練が行われ、また、暁部隊という陸軍部隊が九十九島あたりを中心にして防衛任務についていた。

 島原市への空襲は、昭和20(1945)年7月(日付不詳)に1回、艦載機の来襲があり、島原鉄道の列車、当時官営のアルコール工場であった宝酒造、市庁舎、その他民家などが艦載機からの機銃掃射や焼夷弾の投下により被災を受けた。

 被災状況は、死亡者3名、重傷者5名、軽傷者3名であった。

(被災状況の数字は、(財)太平洋戦全国空爆犠牲者慰霊協会発行の「平和の祈り」参照)

○慰霊行事

行事名 主催 開催時期
島原市戦没者追悼式 島原市戦没者慰霊奉賛会 毎年10月
杉谷地区戦没者慰霊祭 温泉熊野神社 毎年4月15日

 その他の各地区等においても、慰霊祭が実施されている

○慰霊碑

 昭和35(1960)年3月、島原市遺族会が島原城内に建立した殉国慰霊堂をはじめ、市内数カ所に慰霊碑等がある。

○「殉国慰霊堂」

 昭和35(1960)年3月、島原城内に築かれた「西の櫓」の1階が殉国者の慰霊堂をかねたものとなっている。

戊辰役以後殉国之霊位:昭和40(1965)年9月建立

 top へ

諫 早 市

 昭和19(1944)年7月8日、中国奥地の成都基地から北九州の爆撃に向かっていた米軍機B29が真津山小学校および付近の田畑に殺傷用小型爆弾を投下しました。

 同年8月、栄田、真津山などの民家が、B29による焼夷弾攻撃を受けて炎上、死者1名、負傷者数名を出しました。(日本の空襲-八 九州「日本の空襲編集委員会」より)

 昭和20(1945)年7月27日米軍の機銃掃射により、小長井駅構内において、小学6年の3名の女の子が亡くなりました。

(新小長井町郷土史「小長井町郷土史編集委員会編集」より)

top へ

大 村 市

○空襲等の状況

昭和19年10月25日、アメリカ軍大型爆撃機B29数十機が、中国本土成都から飛来、空襲によって第21海軍航空廠が壊滅的な被害を受け、死者約300名以上、重軽傷者500名以上、建物消失21万平方メートルに及んだ。また、竹松・福重・桜馬場の国民学校が消失するとともに、民間住宅634戸が被害を受けた。空爆はこの後終戦まで数十回繰り返された。

○空襲で煙を噴き上げる第21海軍航空廠

アメリカ軍第58機動部隊の艦載機によって行われた空襲のため、煙を噴き上げる大村の海軍航空廠の格納庫と工場。この攻撃は沖縄攻略戦の2週間前に実施され、特攻用飛行機の製造を阻止することがその目的の一部であった。写真奥には、箕島(現長崎空港)が見える。

top へ

対 馬 市

 昭和20(1945)年8月10日前後頃、神崎灯台が空襲を受けた。警戒していたら翌日グラマン2から3機程度が来襲し、焼夷弾と機銃掃射を受けた。

 焼夷弾は3ヶ所に落ちた。そのうちの1発が民家の倉庫の壁を焦がし(写真アは、焼夷弾による焦げ痕)、自宅が銃撃された(写真イは機銃掃射を受けたときの弾痕)。他の2発は畑に落ち、たいした被害はなかった。

写真ア

 写真イ

top へ

長 与 町

その1

 昭和20年(1945)7月5日、それは正午過ぎのことであった。

 けたたましい轟音と煙の尾を引きながら、日の丸のマークを付けた日本軍の飛行機が斉藤郷の海岸上空を通過、二島と馬込間の海中に墜落した。聞くところによると五島上空で敵機と戦い、敵弾を受けたものらしい。

 すわ一大事!大切な搭乗の兵士を死なせてはならじと、斉藤、岡の警防団員を先頭に、何人かの人々が小舟を漕ぎ出し急ぎ救助に向かった。毛屋の金比羅神社の高台には、付近の人たちが集まってなり行きを見守っていた。

 そのとき、今度は敵の小型機二機が墜落機の後を追うように低空で飛来すると、何を目標にか機銃弾を浴びせかけた。その何発かは、海上を急いでいた救助に向かう兄弟の舟に命中、兄は死亡、弟は足を負傷した。

 敵機はさらに急旋回すると、突如、毛屋の民家にも銃撃を加えた。曳光弾らしい一発がそれぞれ民家に命中、両家とも炎上し、焼失した。

その2

 

 機銃弾の穴が残る「鶴の港」の煙突

 廣瀬酒屋のシンボル「鶴の港」の煙突には、今も機銃弾の穴が残っていると言われる。この煙突は工場の煙突と間違われてか、同家は再三にわたり敵機銃撃の目標となり、その都度外に避難していたといわれる。

その3

 日時ははっきりしないが、昭和20年のある日、長与役場前の広場で軍馬の調練が行われていた。そのとき突如、グラマンらしき敵戦闘機が低空で飛来、機銃を乱射した。居あわせた人々は爆音で一斉に役場内に逃げ込み、難を逃れたが、銃弾の一発は馬に当たり、数発が役場前のくすの木に命中、小学校の炊事場も被害を受けた。くすの木に当たった銃弾は、その後長らく木質に食い込んだままになっていたといわれる。

※ 昭和20年7月の村会議事録によれば、同月5日の空襲により被害を受けた人々に、村より見舞金を支出することが議決されている。

(長与町郷土史 下巻より)

 top へ

川 棚 町

昭和20(1945)年7月28日は空襲警報が4度鳴った。

翌29日は終日警報がなった。翌30日は大村がまた敵機の大空襲を受けた。波状攻撃をかけ、急降下で爆撃するその様子が、川棚からもよく見えた。

この日、敵機は川棚にはビラをまいていった。このビラには時計を書き、時刻の文字には米軍がこれまでに占領した太平洋の島々をその順に配置してあった。両針は沖縄を過ぎて本土に迫っている。時刻はもうすぐ正午だ。そのビラには次の文字が印刷してあった。

  時は迫る!

  戦争は軍部がしているのだ。

  無条件降伏とは国民を苦しめるものではない。

  毎日の空襲同情します。

警報が出て、帰宅途中の小学生の頭上に舞い落ちてきたこのビラを、憲兵が来てみんな持って行ってしまった。

7月31日、遂に恐怖の日が来た。

午前10時をちょっと過ぎた頃であった。爆撃機が7機、低空飛行で我が川棚町に襲いかかった。爆音、爆弾の破裂、爆風、高射砲の音にあわてて防空壕に逃げ込んだが。

爆弾のほとんどが、国鉄川棚駅の下り遠方信号機から鉄橋の間に落ちた。この爆弾で、鉄橋の脚は痛み、そのため汽車は1週間ほど鉄橋を渡ることができなかった。爆弾が落ちた田んぼは、見る見る水が渦巻いてたまり、深い池となった。平島の線路わきに新築されていた映画劇場は倒壊し、このとき来ていた慰問団員は死亡した。またその近くの民家も10戸あまり倒壊し、防空壕の中でも子供が数人死んだが、何年も待ちに待ってやっと生まれた赤ちゃんが至近弾の爆風を受け、生後3日目に死んだのは最も痛ましいことであった。江川橋の下に隠れていて近くに爆弾が落ち、そこで10数名が死んだ。このときの死者は全部で69人だったという。

原田橋(現川棚大橋)の東側の田んぼ(現栄町のうち)を埋めて、そこに馬小屋が建てられていたが、この爆撃で15頭が死に、その赤い血は川棚川を赤く染めた。

平島と宿の部落が最も被害が大きく、家が倒れ、ガラスが割れ、壁が落ちるなど、今更ながら爆撃の恐ろしさを身をもって味わったのであった。

この空爆のあと、また町部落から農業部落へ家財の疎開が盛んに行われた。

昭和47年10月 川棚町長発行「川棚物語」より抜粋

top へ

雲仙市(旧吾 妻 町)

 昭和20(1945)年7月5日正午頃、村内田内川部落に焼夷弾と小型爆弾が投下され村長の自宅と共に12世帯25棟が焼け、3人が焼死した。牛も3頭死んだ。3人のうちの2人は長崎市からの疎開者であった。空襲におびえながらも稲植えのため出払っていたので、死亡者は3人に止まったが人心の不安は大きなものであった。

(守山村史)

 top へ

雲仙市(旧愛 野 町)

年月日 昭和20(1945)年7月30日(月曜) 11時前後

場  所 愛野村国民学校

死亡者 14名

負傷者 18名

 

慰霊碑(忠魂碑)

爆死児童14名の碑がまつられている。毎年4月

3日には町の奉賛会により慰霊祭を実施している。

  top へ

雲仙市(旧南串山町)

 大東亜戦争も末期になると、連日の空襲におののいていた。しかし幸にも、村内での被災死者は出ていなかった。昭和20(1945)年7月5日午後3時頃、空襲警報とほとんど同時に、低空で侵入してきたグラマン戦闘機によって谷間川地域は機銃掃射を受けた。

当時小学校3年生であった男子が死亡した。

(南串山町郷土史)

top へ

南島原市(旧口之津町)

 昭和20(1945)年4月、敵機が突然飛来して旋回しながら機銃掃射を始めました。現在の海員学校付近の堤防に備え付けてあった機関銃でこれに対抗していた暁部隊の将校が倒れ、それから高校付近の上空で旋回して港の入口方向から焚場(栄町)に向けて銃撃しました。この銃撃により町民の一人が射殺され空襲の恐ろしさをまざまざと見せつけられました。

(白石正秀氏著 「口之津思い出すままに」-戦争時代- より)

 top へ

南島原市(旧有 家 町)

○1回目の空襲

 昭和19(1944)年11月21日

 20機近くのB-29重爆撃機が3機ずつ編隊を組んで次々と飛んできて、町の中心部に数十発の250キロ爆弾と油脂焼夷弾や焼夷弾の雨を降らせた。

 爆撃による被害状況

・250キロ爆弾の直撃による死亡 8名
・油脂焼夷弾による死亡 1名
・直撃弾による家屋の破壊 全壊 4棟
半壊 1棟
一部破壊 1棟
・油脂焼夷弾による損害 全焼 5棟
半焼 1棟
・不発弾直撃 2棟

○2回目の空襲

 昭和20(1945)年7月20日。

 グラマン戦闘機2機が訓練を受けていた生徒達がいる小学校の校庭めがけて銃撃を加えた。

 生徒達は防空壕の中に飛び込み銃弾を避けることができたが、学校付近の家にはところかまわず機銃弾が撃ち込まれた。

○3回目の空襲

 昭和20(1945)年初夏頃。

 米軍のロッキードP38戦闘機1機が、多くの兵隊を乗せて航行していた軍の輸送船めがけて激しい攻撃を繰り返した。

 B-29爆撃によるコンクリ塀に残る弾痕

 昭和19年11月21日 米機爆撃による被害地点略図

◎直撃弾による爆破家屋

油脂焼夷弾による火災家屋

△焼夷弾または油脂焼夷弾

○田園の爆撃及び不発弾

top へ

平戸市(旧生 月 町)

昭和20(1945)年7月31日の朝、生月上空を米軍の小型双発機の大編隊が通過しました。その編隊が攻撃を終えて帰る際、数機が急降下して機銃を掃射し、爆弾を落としました。爆弾は壱部の民家に落ち、3人が一瞬にして命を落としたのです。

また御崎で壕を造る仕事をしていた住民1人も、機銃掃射で命を落としています。

更に、8月13日にも海軍長瀬崎防備衛所で敵機の銃撃を受け、水兵1人が亡くなっています。

 top へ

佐世保市(旧宇 久 町)

○空襲の回数

昭和20(1945)年7月7日 1回(米軍機の機銃弾を受けた少年2名が死亡した)

昭和20(1945)年7月8日 1回

○規模

(7月7日)

 米軍大型機(PBM,PB4Y)数機を含む小型機(P47)計20機(当時の朝日新聞記事による。)

   注:某記録ではB-29 2機とP-47 13機の計15機

 当時12歳の少年は18機、別の一人は19機数えたという。

 この編隊は、まず古志岐島灯台を午後4時5分ごろ襲い、銃撃で貯油室貯油缶が発火、同室や事務室、灯台などを全焼した。爆弾も数発投下されたが、いずれも海中に落下、高い水柱が上がった。  

 次いで、宇久島に向かい、午後4時15分ごろから古志岐島灯台平事務所を反復銃撃した。また、事務所前石垣に250キロ爆弾が1個投下されたが不発、あと1発は事務所から西に60メートルの民有畑に投下されたが爆発した模様。

 平港付近の民家や宇久国民学校も無差別攻撃により多数の被害を受けた。うち1軒は機銃弾が柱、小壁、障子の桟、雨戸などを貫通、東側から入り西側の戸外へ出た跡が現在も保存されている。

 平港佐賀里の船溜まりの漁船に来ていた少年3名のうち、1名は機銃掃射された時、海に飛び込んで助かったが、1名の少年(17歳)は即死、1名の少年(16歳)は片足に機銃弾を受け、その夜、出血のため死亡したという。

(7月8日)

 午後4時10分頃、大型飛行艇1機と小型機2機の計3機が古志岐島灯台を偵察の後、機銃掃射した。その後、灯台平事務所や港付近の民家を機銃掃射し被害を与えた。

 さらに、佐賀里波止場付近の陸上に爆弾が2発、海上に1発(2発という人も)落とされた。

 この直線上の平港頭にある石油店所有の30キロ重油タンクを目掛けての爆弾投下だったと思われる。3発(4発?)とも不発だった。

 top へ

新上五島町

 目撃証言によると、昭和20(1945)年5月頃、福見港沖で1機か2機の米軍戦闘機により、福江行きの定期船、長福丸が銃撃及び爆撃を受ける。(機銃掃射のみでなく爆弾も投下した)

 長福丸は、ブリッジを破損消失するも蛇行しながら福見港内に逃げ込んできた。

 その後漁船(運搬船)が駆けつけ奈良尾港へ曳航し、負傷者の救助に当たり映画館を救護所としていた。死者も出たが、死者数、負傷者数ともに不明。

(町誌)

  top へ

このページの掲載元

  • 原爆被爆者援護課
  • 郵便番号 850-8570  
    長崎県長崎市尾上町3番1号
  • 電話番号 095-895-2471
  • ファックス番号 095-895-2578