中学生部門 長崎県知事賞 自分が変わると 諫早市立小野中学校 1年 きむら りお ガタンッ、ドタドタと家のどこかで物音がした。音のする方へ向かうとそこには祖母の姿があった。祖母は台所で料理をしていたようで、まわりには調味料が散乱していた。祖母は私がいることに気がつ くと、「ちょうど良かった。これ、取ってくれんか。」と言った。めんどうくさいなと思いつつ、調味料を拾った。祖母は両足に障害を持っており、私が普段、何気なくできているひざの曲げ伸ばしや床に座るなどの 動きができない。だから、何かを落としてしまったり下に置いてあるものを取りたいときには、すぐに私が呼ばれ、取って祖母に渡している。小さい頃は、呼ばれるとすぐにかけつけて取って いた。しかし、年を重ねるにつれ、心は成長していくために、あらゆることへの考え方も変わっていく。小学校五年生の頃には、この手助けは私にとってめんどうくさいものになっていた。そんな時に、祖 父も倒れ、体が不自由になってしまった。心配している心もあったが、それと同じくらいに手助けをしないといけなくなる場面が多くあるのかな、嫌だと思う心もあった。  祖父が倒れ、入院して約一カ月がたった頃、タブレットの動画で発達障害がある男の子の話が流れてきた。ふと、障害は手や足だけではないんだと思った。同じ学校に障害を持っているAさんがいること とも思い出した。何の障害かはよく分からないが、その頃、Aさんはよく陰口をいわれたり、さけられたりすることが多くあったようだった。私はその子のことをあまり知らなかったため、深く考えていなかった。  その動画の子は障害が理由でいじめにあっていて、それはとても悲しいものだった。今の状況とAさんの状況がすごく似ていることが、私の心に違和感を残していた。それは、私の心とも似ていて「め んどうくさいから関わりたくない」という私の心を変えてくれた。障害がない私にも、不自由さと傷ついた心がよく伝わった。 それからの私は、障害の有無に関係なく、いろんな人に気配りをするようになった。今まで、障害者という人たちをいないかのようにめんどうくさいと思っていた私はどうかしていたと、今ではよく思う。 そして、祖父母の障害に真剣に向き合った。前のように、頼み事はすぐに手助けし、買い物で乗り物に乗る時は、完全に乗れたことを確認した上で、私も乗り込んだり、荷物持ちをしたりしている。何かがで きない人はできる人が補う。そんな助け合いが私が障害者と向き合うための第一歩だと思ったからだ。 障害者がすぐそこにいる生活の中で、これからも私は今まで通り助け合いは続けていく。それに加えて、障害がある人とない人がどうしたらどちらも不自由ない生活や人生を送ることができるか考えていきたい。 中学生部門 長崎県教育委員会教育長賞 幸せ 長崎県立長崎東中学校 1年 はら さあや 「だれでも、幸せを感じるきっかけは日常生活の中でたくさんある」これは私が小学校のイベントで感じたことです。 私は約一年前、小学六年生の時に障害をお持ちの方と関わる機会がありました。小学校でコーラス部に 入っていた時にAという施設の方に声をかけていただ き、その施設で歌を歌うことになりました。A施設は、重度の障害や、発達障害をお持ちの方が生活されている施設です。施設に行くと聞いたときは「どんな人がいるんだろ う」「どんな生活をしているんだろう」「何をして楽しんでいるのだろう」などの疑問ばかりがありました。そのような疑問をたくさん持ったまま、A施設に行く日が来ました。私は、いつものコーラス部のイベントの時よりも 緊張していました。なぜなら障害をお持ちの方がどのように私達の歌を聞いてくださるのかが、全く分からなかったし、予想もつかなかったからです。発声や体操などを終わらせて、施設の中に入ると、 たくさんの施設スタッフの方や施設の利用者の方が歓迎してくださいました。本番まで、座って待機するときにどんな人がいらっしゃるのか、見ながら待っていました。自分で歩いたり寝返りができず一人一人にあった車いすに座ったり ベッドに寝たりされている方もいらっしゃいました。体に装具をつけた方や小さな子ども達もいらっしゃいました。 そして、ついに本番の時間になりました。ステージに上がると、会場全体の様子がよく見えました。歌い 始める前、たくさんの人が期待するような笑顔で私達を見てくださって、とても嬉しくなりました。歌い始めると、私達のふりつけをまねしてくださったり、リズムにのって楽しむような素振りを見せてくださった りして、障害がある人も障害のない人も同じように、音楽など、好きなことを楽しまれているんだ、ということを改めて感じることができました。 家に帰ってから、一緒にイベントに行った母と、その日にイベントであったことや感想を話しました。 母は、不自由な身体を精一杯動かしながら、歌ったり踊ったりして嬉しさや楽しさを表現してくださっている様子に感動したと言っていました。私は、それを聞いて私達と楽しみ方は同じだということに気がつきました。障害の有無に関わらず、 それぞれに楽しいことがあって、嬉しいことがあって、好きなことがあることに気がつきました。逆に言えば、それぞれにつまらないことがあって、悲しいことがあって、苦手なことがあるということです。  私は、この出来事を通して、障害は、誰でもが持っている個性や性格などと同じようなものだと思いました。つまり、障害を持っている人が「普通」ではないわけではないのだと思います。そもそも、自分と同じものや大勢の人が支持するものを、 普通ととらえがちですが、人によって異なるものです。障害がある人もない人も自分が好きでやりたいことを楽しみ、それぞれの「幸せ」を見つけて、それに近づくことができたら良いと思います。 中学生部門 長崎県社会福祉協議会会長賞 平和学習とろう学校の方々 長崎県立長崎東中学校 2年  おちあい ゆいと 僕は今、手話を練習している。 なぜ手話を練習しているかというと、僕は学校で平和実行委員という役職に就いているからだ。この平和実行委員という役職は、八月九日に学校で行われる、平和集会という行事の準備を行う役職である。活動は主に昼休みで、 教室に各クラス男女一組ずつの委員が一年生から三年生まで全員が集合し、平和集会のテーマを何にするかや、集会で何をするのかを、それぞれ意見を出しあいながら話し合う。 実は僕がこの役職に就くのは二度目である。去年この役職に就いたときは、 集会の流れなどもあまり分からず、探りながらの話し合いだったが、二度目の今回はあまり困ったりすることもなく、話し合いはスムーズに進んでいった。 しかし七月上旬、去年にはなかったまったく新しい試みを行うということを実行委員の担当の先生から 聞かされた。それは、「ろう学校の方々と、ビデオ通話を通じて交流を行う」ということだった。交流会では、ろう学校の方々に手話を教えてもらい、平和実行委員が話し合って決めた「平和宣言」という、自分たちが平和のためになにをこれからするのかを まとめた文章を、平和集会で手話で発表するということになった。 そして、数日後にろう学校の方々から、平和宣言の内容を手話で訳し、それを実際にろう学校の方々が手話でしている様子がうつされた字幕つきのビデオが送られてきた。 それが送られてきてからしばらくは、昼休みに実行委員が集まり、送られてきたビデオを見て、その手話を覚える日々が続いた。 そして、ついにろう学校の方々との交流当日を迎えた。実行委員もろう学校の方々も早く集まったため、予定より早く ビデオ通話がつながり、互いに手を振ったりしているうちに、交流会が始まった。 交流会では、ビデオで送られてきた手話の動画の中で分からなかった部分を質問し、ろう学校の方々が、それに答えるということをした。交流の中で特に驚いたことは、 ろう学校の方々の中には、僕達と同じくらい話すのが上手な人がいたことだ。特に三年生の方は、手話がとても上手な上に、話すのもとても上手で、すごいなと思った。 しかし、それと同時に、自分の中に一種の偏見があったことに気がついた。 僕は勝手に耳の聞こえなさの度合いや、話すことがどのくらいできるのかを自分で想像していたのである。 偏見とは、想像をしたときに、その想像があまりに偏っていることである。人は想像することで、自分がまだしたことのないことや、まだ起きて いないことの経験を補おうとする。 それは、生きていく上で必要不可欠なことである。想像をすることで、なかなかすることのできない体験で得るものを補ったり、災害への対策を行うことがで きるからだ。しかし、その補った部分は想像したものであり、それが事実ではないことを忘れてはならない。 もしも、その想像を事実のように思い込んでしまうと、それは偏見になってしまう。一度偏見になってしまうと、それを正しい見方に直すには、 その想像していたことに実際に触れなければならない。 僕はそのことをその交流会で学んだ。 今、僕は手話を練習している。八月九日の平和集会では、正しい見方に直せた体験のことも発表するつもりだ。   中学生部門 長崎県身体障害者福祉協会連合会会長賞 思いやりの輪を広げる 純心中学校 3年 はらの ゆづき 私は、左耳が聞こえません。小耳症という生まれつきの病気です。みなさんは小耳症というのをきいたことはありますか。友達に知っているか聞いてみると、ほとんどが知らないと答えました。私はそうでもないのですが、発症例が少なく、理解されずに 苦しんでいる人が多くいます。だから私は、一人一人が障害への理解を深めるべきだと思います。 私自身、左耳が聞こえないので、他に聴覚障害を持っている人はどんな風なのか気になって調べたことがありました。調べてみて思ったのは、私は恵まれていた、 ということでした。左耳の方から話しかけられると、気付かず、聞き直すことはありましたが、他に問題がなかったこともあり、皆、普通に接してくれました。しかし、他の人は、「補聴器をイヤホンだと誤解されて、何度説明しても理解されなかった。」 「障害があるから仲間はずれにされた。」などといったことがあったそうです。私はこの話を知ったとき、とてもショックで心が痛みました。 そんなとき、私はパラリンピックをみました。足や腕がなくても耳がきこえなくても目が見えなくても輝けるのだと 感動したのを覚えています。選手達は、辛いこと、大変なことがたくさんあったと思います。しかし、それを乗りこえ、みている人に勇気や希望を与えてくれました。最近ではSNSを通じて勇気や希望を与えてくれる人達もいます。よく闘病中の女の子の 投稿を、がんばってほしいなと思ってみています。その子はとても明るくて良い子だというのが伝わってきました。コメント欄をみてみると、温かい言葉であふれていました。自分のことではないのに、なんだかうれしい気持ちになりました。 でも、 障害者はかわいそうだという人もいます。私はそう思ったことはないし、障害がある人は自分自身のことをかわいそうだとは思わないと思います。私は左耳がきこえませんが、自分のことをかわいそうだと思ったことはありません。みなさんも差別的な発言や 考えはよくないと思うでしょう。しかし、正しく理解しておらず、差別的なことをしている人がいるのです。そういった人を減らすためにも、一人一人が障害について理解を深めることが大切だと思います。そして、思いやりの輪が広がっていってほしいです。  そうするため、私は、自分でできることを考えました。一つは、周りをよくみて困っている人を助けることです。本当にささいなことでもいいと思います。もう一つは、障害について知る努力をすることです。自分が気になったことについてでもいいので、 障害について理解を深めてほしいです。「微力だけど無力じゃない」私の好きな言葉です。小さな力だけど、積み重なると大きな力になります。そうして、少しずつ一緒に思いやりの輪を広げていきませんか。 中学生部門 長崎県手をつなぐ育成会会長賞 私と兄と陸上 純心中学校 2年 いたやま あいな 私の兄は発達障がいがあり、中学校から支援学校に通っている。現在高校二年生だが、意思疎通が難しく、理解できない事もあるが普通に元気に過ごせている。兄は、小学六年生から障がい者の陸上チームで活動している。私もその頃から一緒に参加し、 障がいがある皆と触れ合っている。メンバーは、知的障がいがある小学低学年から大人までと範囲も広く、二十人程の人数で顔見知りも多くなった。一緒に体操したり、グランドを走ったりしている。兄は、チームの中ではリーダー的存在で、準備体操など、 皆のお手本になり、声掛けを行っている。 高校生になると、学校の部活動で陸上部に入部した。私も同時期に学校の陸上部に入部した。入部した頃は、少しの差だったが今は大きな差になったと感じている。兄は部活動を休まず参加し、さらに休日には父とも ジョギングに出かけている。決めたことはやり遂げる性格で、私も見習いたいところである。障がい者の陸上チームメンバーもすごく真面目な性格である。活動時は体操から始まり、基本練習、本番のダッシュやタイム走など真剣に取り組み、休むことなく やり遂げる。部活動が休みの時は私も参加し、活動の手伝いをしている。メンバーには、コース通りに走れなかったり、合図をしてもスタートしなかったりと様々な出来事が起こるが、皆一生懸命取り組んでいる。一生懸命取り組む姿を見ると私も「頑張らなきゃ」と思う。  私は、陸上を始めて二年目で、練習についていけるようになったが、まだまだ実力が足りない。成績も中々伸びていないが、「頑張らなきゃ」という思いは誰にも負けない。障がいを持った人達も、陸上の活動に継続して参加し、走る競技を覚え学んでいる。 継続することが力になるということを信じ、兄の背中を見ながら、頑張ろうと思う。今後も、時間があるときは障がい者の陸上チームにも参加し、活動を手伝うなど、障がい者の方々と触れ合っていきたい。  中学生部門 長崎県知的障がい者福祉協会会長賞 親しみやすい「空気」へ 純心中学校 1年 もりやす さくや 私が通っていた小学校には支援学級というクラスがありました。その学級に通うのは、「発達障害」がある人たちです。大人数の学級では落ちついていられない子や、授業だけでは内容が理解しづらいから、分からないところは何度でも先生が教えてくれるという、 少人数制の学級です。 私と同じクラスに小学校一年生のときから支援学級に通っている子がいました。私は一年生のとき、時々クラスからいなくなるのはなぜだろうというくらいの気持ちでした。学年が上がるにつれて「発達障害」について学び、 一人一人困っていることが違うということを知りました。 その子は昼休みと帰りの会に加え、通常の授業の一時間ほどクラスに戻っていました。 ある日の席替えで私は彼と隣の席になり、彼のことが少し見えてくるようになりました。給食の時間が終わり、 少し経ったくらいに彼は教室の自分の席につき、ずっと一人で工作をしていました。トイレットペーパーのしんや折り紙を使い、昼休みの四〇分ほどで今まで見たことが無いクオリティーの高い大きなけんを作っていたのです。私はとても驚きました。同じ学年 なのにこんなすごい物を作れるんだ、という尊敬の気持ちもわきました。よく思い出してみると、彼の図工の時間に作っていた作品はどれも印象深く、私の中に残っていました。風景画で海を描いていた彼は青や水色などの寒色だけでなく、黄色や黄緑色なども 使って色をぬって、他にはない独特の雰囲気を出していました。それに加え、船やつり人なども細かく、正確に描かれていました。 彼は集団生活や勉強面では苦手なことが多かったように見えましたが、作品づくりや興味のあることへの探究心が人一倍 強いように思いました。このことから私は、人は目に見える一面だけでなく、様々な角度から見ることができるのだと実感しました。そもそも、「発達障害」は、周りの人たちに比べて苦手なことが多いだけで、本人の意志ではないです。私はこの事実をもっと 多くの人に知ってほしいです。そして、障害がある方々が今よりも親しみやすく、過ごしやすい空気や環境をもっとたくさん作っていきたいです。 中学生部門 長崎県身体障害児者施設協議会会長賞 想い出を何度も 長崎県立長崎東中学校 3年 やました ゆうな  害に障ると書いて「障害」。私の障害への考えは、あると害になるもの、それだけだった。 私の考えが変わったのは、祖母の手術がきっかけだった。祖母は脳の手術中に血管が破裂し、記憶と嗅覚に後遺症が現れた。その影響で祖母と私は一緒に暮らすことに なった。祖母の入院中に私は何度かお見舞いに行っていたので、特に不安は抱いていなかった。祖母が退院し、家に来た十二月、ちょうど冬休みの頃だった。初日、私は驚きを隠しきれずにいた。祖母の状態は、私が知っているより悪かった。一分間に五、六回 今日は何曜日かきいてきたり、何度も何度も同じことを言ったりする。当時、受験勉強でストレスがたまっていた私にとって、祖母の行動はさらにストレスを生む原因となった。私の態度は酷いものだった。言葉遣いが汚くなったり、イヤホンを付けて祖母の言葉 を聞こえなくしたりするようになっていた。自分でも、何故ここまで悪態をついてしまうのか分からなかった。 転機が訪れたのは、祖母が家に来て初めての春のことだった。近所にある公園で花見をしようと母に誘われた。もちろん、祖母も一緒だった。 桜は満開で菜の花やパンジーなども美しく咲いていた。花見の間、祖母は何度も、何度も嬉しそうな声で、「すごく綺麗な桜だったね。また来年も一緒に行きたいな。」と言った。家に帰る途中や家に帰ってからもまるで初めて私たちに伝えるかのように言っていた。その時、 私は初めて気づいた。今までの私が悪い面でしか祖母の後遺症を受け取れていなかったことを。私は、無意識のうちに祖母の後遺症、「障害」を受け入れたくないと思っていたことを。それに気づいてからでも、なかなか受け入れることはできなかった。 しかし、以前までとは違い少しずつ現実に向きあうようになった。そうして知った素敵なことがある。それは、祖母が何に対しても良い意味で同じ反応をしてくれることだ。例えば、私の服をずっとほめてくれたり、何度か行ったことのある飲食店でも初めて 味わうというような反応をしていたりする。特別なことをしているわけではないが、その空間が心地良くて、私は大好きだ。まるで、大切な思い出を何度も繰り返しているように感じる。私にとっては一緒に経験したことでも、祖母にとっては初めての経験だと 感じているだろう。それでも、新しい思い出を作り続けられることが、私は嬉しい。 まだ私は、祖母の後遺症を受け入れられてはいない。やはり、過去のことを思い出してしまう。しかし、私は祖母にとっての「今」と「未来」を大切にしたいと思っている。 なぜなら、今の祖母を見ていると、現状が悪くないと強く感じるからだ。もちろん、本人にしか現状に対する思いは分からない。周りが何か言っていいものでもない。だから私は、今もこれからもたくさんの思い出を祖母と作り、思い出していけたら幸せだと 思っている。